関係者の素顔に迫るインタビューを競馬ラボがオリジナルで独占掲載中!

野中賢二調教師

野中賢二調教師


追い切りのポイントは上がり

-:この馬の調教から見ておくポイントというのを教えて下さい。調教映像は正面からしか見えないですけれど、どういうところを見ておいたら良いですか?

野:上がりがシッカリ動いているかどうかやな、この馬に関しては。やっぱり、筋肉がちょっと硬くなるところがあるから、シンドくなってくると最後の踏ん張りが効かなくなるしね。

-:動けなくなってくると?

野:ええ。良い時はやっぱり、最後も動くからね。時計が全体的に速くて、最後も動けるから。先々週はちょっと動きが悪かったけれど、先週ぐらいからシッカリ動けるようになってきたから。緩めた後、徐々に良くなってきているので。

-:今、締め出しているところですか?

野:そうです。

-:坂路の水準としてはだいたいどれぐらいの時計と思っておけば良いですか?

野:先週は普通に速かったら、50秒切るぐらいのヤツやからな。良い馬場やったらな。できるだけ動かすつもりやけどな。

-:それは馬場状態によって時計が。

野:最後、シッカリと動けるように。



-:そして、今までの話を聞くと、枠があんまり内過ぎたら、良くない馬ですからね。

野:そうやなあ。勝つ時は上手いこと開くし。2枠とかでも勝ったんだよな。でもこの辺を勝つとなると運もあるし。

-:若干、外目の6、7枠ぐらいが。

野:そうやね。偶数を含め。

-:本来は芝スタートの方が良いですね。そういう意味ではフェブラリーSはプラス条件ですね。

野:そこはプラスになるだろうね。

-:G1を意識した仕上げで。

野:本当に休み明けから頑張ってくれてるし、カペラSもあまり得意でない条件で2着に来てくれてるし、今回は前々走で強い勝ち方をした条件になるからね。相手はかなり強力になるやろうけれど、コッチもそこで戦えるぐらいの仕上げをして、ぜひG1に行きたいので、何とかココをクリアしてくれたらなと思いますね。

これからは得意のダート路線に専念

-:オアシスSでの負け方を気にしていると思うんですけれど、あの時はレース中に球節を怪我してたんですね?

野:そう、骨折をしていたんです。

-:アレは度外視して良いと。

野:そうやね。最初は左回りがアカンのかなと思ってたんだけれど……。

-:でも、あの骨折から帰ってきて、もうワンランク良くなったイメージがあったんですけど。

野:そうそうそう。だから、普通の運動とかから、硬さが全然なかったし、フラットワークで、普通に速歩とかやるところでも、かなり動けるようになってたから。やっぱりシンドイ所が色々あって、ちょうど良い休養になったんだろうね。

-:骨折したことで半年間休める期間が設けられたというか。

野:そう。結構、若い時に使いたくない時に使ったり、目指さないといけない所もあったから。



-:馬がケガするのは蓄積疲労らしいですからね。

野:完全に骨とかでも、疲労でソコの骨の柔軟性がなくなったりしてきての骨折とかやからね。代謝が上手く出来なくなって、余計に若馬の時は1回、2回の無駄が後々に引きずるからね。

-:思い起こせば、ヴィクトワールピサと一緒に走ってるんですね。ラジオNIKKEI杯2歳S。

野:そうや、そうや。

-:意外なんですけれどね。だから、エイシンフラッシュとかルーラーシップとか、あの世代ですね。

野:だから、パッと思った時にダートでずっと行っとけば、G2ぐらい簡単に獲っていたのかもしれない。

-:先生は初めにこの馬をご覧になった時に、ダートの短距離方向でというイメージを持たれてたんですか?

野:持っていたよ。だけど、オーナーとしたら芝で、最初はダービーや目指すのは当然だから。そうじゃないと2000の重賞を使わないでしょう。

-:でも、これだけ芝でもダートでも走る馬は珍しいですね。

野:でも、ダートだったらもっと早くにね。若い内に重賞とかも獲ってたでしょうね。その分、これからは思う存分ダートで行けるところまで行きたいと思います。

-:ありがとうございました。

(取材・[口取りを除く]写真)高橋章夫


野中賢二調教師インタビュー前半へ→

1 | 2


【野中 賢二】Kenji Nonaka

1965年生まれ 福岡県出身。
2007年に調教師免許を取得。
2008年に厩舎開業。
JRA通算成績は96勝(13/1/20現在)
初出走:
2008年3月1日 1回阪神1日目9R トウカイフラッグ
初勝利:
2008年3月15日 1回阪神5日8R トウカイインパクト(1着/16頭)


最近の主な重賞勝利
・12年 ステイヤーズS(トウカイトリック号)
・12年 愛知杯(エーシンメンフィス号)


厩務員をやっていた父の影響で10歳から乗馬を始める。昭和57年10月から藤岡範士厩舎に入り、厩務員から助手へと転身し、その後は厩舎を開業するまで所属。

藤岡範師を「父であり人生の師匠」と尊敬しており、番頭を任される中でタフネススター(カブトヤマ記念を勝利)などを育て上げた。当時の雰囲気を自厩舎で継承しつつ、目標でありライバルとしては「昔から一緒に馬乗りをやっていて、お互いやろうとしていることが分かる。スタッフを揃えて技術を上げていって、ああいう風にやっていきたいというのはある」と、藤原英昭師の名を挙げる。馬に対して「生きてきたそのまんま。本当に感謝しかない」と語るそのポリシーは、11歳にして平地で競走生活を続けるトウカイトリックの育て方に相通じるものがある。