“ポスト・川島師”地方No.1トレーナーが初登場(前編)
2015/2/28(土)
最強調教師が浦和で誕生するまで
-:それでは、初登場の小久保智調教師に伺います。よろしくお願い致します。今回は初のインタビューということで、プロフィールからお伺いしたいと思います。競馬界に入るきっかけから教えていただけますか?
小久保智調教師:ハイ、よろしくお願い致します。もともと家が貧乏で、奨学金で高校にも行ったほどだったのですが、お金を稼がないと返せないので、その時なりに悩んで、卒業したらすぐに働こうとなりました。もともとは親父が競馬ファンだったので、高校の卒業式の次の日に、競馬ブックに出ていた牧夫の募集に申し込んで、そのまま滋賀県の牧場に行きました。
-:大学への進学を諦めて、牧場で働いたのですね。それまで馬に触ったことはなかったのですか?
小:なかったです。まるっきりゼロからです。東京生まれのいわば都会っ子なので、厳しさで挫折しそうでした。4ヶ月くらいで辛く感じましたが、馬の世界は良いなと。もちろん東京に戻りたい思いもありましたが、馬しかないだろうなと思い、大井の赤間清松厩舎に厩務員で雇ってほしい、と電話したんです。「とりあえず会いに来い」となって、採ってくれたんです。
-:赤間先生とは面識はあったのですか?
小:なかったです。当時は、牧場に調教師の名簿が配られていたんです。それに番号が書いてあったので、電話しました。
-:電話してみるものですね(笑)。
小:そこで行ったら、赤間先生がうちは一杯だから、と大井の岡部盛雄先生を紹介して下さり、そこで働かせてもらえることになりました。それが18歳の時ですね。牧場で働いていたのはたった4ヶ月だけですが、働くことはこんなにも厳しいものかな、と思いしらされました。
-:厩務員生活は充実していましたか?
小:牧場には、それはそれは柄の悪い人もおりまして(苦笑)、馬にも触ったことないのに、「馬乗りを教えてやる」と言われて、丸い馬場で裸馬に乗せられて、何回も落とされながらグルグル回りました。「そうやったら馬に乗れるようになるから」と。
-:生活面だけでなく、人間関係的にもキツかったですか?
小:怒り方が関西弁ですよね。もともと東京出の坊ちゃまですから(笑)、それはそれは厳しかったです。
「浦和にきたのが20歳です。大井には2年いました。2年目の時に今の嫁さんと出会って、“結婚をするなら厩務員より上を目指そう”と思いました。でも、“大井でやっていくのは無理だな”と。調教にも乗せてもらえないんです。どうしたらいいか、と考えていたら、浦和なら調教に乗せてくれる、という話がありました」
-:そこを乗り越えて厩務員になって、この世界で身を固めようとなったのですね。
小:当時は朝も早いのですが、それは全然辛くなかったです。最初にやらせてもらったのが、当時でいうC3クラスの馬。それでも、“馬と一緒にレースに向かって行くことが、何でこんなに面白いのだろう”と感動の毎日でした。
-:調教師になろうという意識は当初からあったのですか?
小:高校の時には、騎手になりたかったですね。しかし、身長がデカかった(笑)。
-:ボクシングをやられていたんですよね。
小:ええ、体重も60キロはありましたから。しかし、助手や調教師というのは、頭の中にはありました。ただ、大井へ移って最初の1年間で色々なシステムを聞いたら、当時は厩務員から調教師になるのは無理なのだと思いましたね。というのも、何人かは助手上がりの人もいましたが、調教師になるのは調教師の息子さんや、ジョッキー上がりの方ばかりでした。厳しい環境は想像できました。
-:そうは思いながらも、しばらくは厩務員をなさっていたのですね。厩務員生活はどれくらいのキャリアになりましたか?
小:厩務員は18歳の時からですからね。大井には2年いて、浦和にきたのが20歳です。2年目の時に今の嫁さんと出会って、“結婚をするなら厩務員より上を目指そう”と思いました。この仕事も好きでしたからね。でも、“大井でやっていくのは無理だな”と。調教にも乗せてもらえないんです。どうしたらいいか、と考えていたら、浦和なら調教に乗せてくれる、という話がありました。もう一回、元にいた牧場に頼んで、「3ヶ月間みっちり馬に乗せてくれ」とお願いしました。そこで3ヶ月間牧場へ行って、浦和にきたんです。
転機となった3年目
-:浦和に来たのはそういう経緯だったんですね。
小:ええ、調教師になるため、上を目指すために浦和に来たのです。
-:そこまでで十数年ですよね。
小:最終的に村田(貴広)厩舎に転厩して、調教師を受けさせてもらうには、受からなければいけないということで、一発で受かりました。当時も苦しい生活で、嫁さんにも本当に申し訳ない中、「もうちょっとで(調教師に)なるから、頑張るから」と言いながらの10年でした。
-:そんな小久保先生を奥様も支えてきたのですね。それから晴れて助手になられたのですね。
小:試験を受けさせてくれる、という厩舎に移って、すぐに受けさせてくれました。
-:一発で受かって、いよいよ調教師に向けて、という日々の始まりですね。
小:助手になれさえすれば、(調教師に)なれるというのはありましたね。
-:2005年の開業ですが、浦和では一番若いくらいですよね。
小:あの時はそうですね。薮口(一麻調教師)ちゃんとは同級生ですが。
「(厩舎運営は) 自分だけが頑張ってもダメなんだな、とは痛感しましたね。“自分が今までこうやってきたんだ”という考えでは成り立っていかない、と1年目は思いました」
-:若い2人が開業したのですね。その2005年から10年目を迎えます。どんな10年目を迎えていますか?
小:あっという間ですね。月並みなコメントですみません、ハハハ(笑)。
-:開業一年目の2005年は年間2勝でのスタートですが、開業当時に苦労されたことはありましたか?
小:自分だけが頑張ってもダメなんだな、とは痛感しました。“自分が今までこうやってきたんだ”という考えでは成り立っていかない、と1年目は思いましたね。2年目も大して勝てていないのですが、その時も預かった馬の中には良い馬がいたんですよ。でも、結果が出せませんでした。“何かを変えなくてはいけない”と思い、それから色々なところを見に行きましたね。
-:競馬場や厩舎ですか?
小:名古屋や高知にコソコソ行っていました(笑)。許可をいただいて、名古屋の角田(輝也調教師)さん、高知の田中(守調教師)さんなどの厩舎を見学に行きましたが、当時の僕のこと覚えているかな(笑)?角田さんは今でも仲良くさせてもらっていますが、そうしてコソコソと行っていました。
-:色々と勉強したことが、結果に繋がってきたのはいつ頃ですか?
小:3年目の後半くらいから、いわゆる『厩務員目線』ではなくなってきましたね。オーナーと、厩務員さん、騎手さん、という役割を相対的に見られるようになってきました。そうは言っても、具体的に分かっていたかは今でも分かりません。
「各ポジションそれぞれの気持ちがあります。馬主さんは“この馬を勝たせたい”、厩務員さんは“自分で考えてこうやったら勝てるだろう”、ジョッキーは“この馬はこう乗れば”と。そういう考えを上手く絡めて、歯車を合わせないといけません」
-:そういう経験が上手く噛み合ってきたのですね。
小:各ポジションそれぞれの気持ちがあります。馬主さんは“この馬を勝たせたい”、厩務員さんは“自分で考えてこうやったら勝てるだろう”、ジョッキーは“この馬はこう乗れば”と。そういう考えを上手く絡めて、歯車を合わせないといけません。
-:技術者というよりも、経営者、社長でいないといけないのですね。
小:だからこんなに太っちゃったんですね。
-:ストレス太りですか(笑)?
小:色々な人の話を聞こうと思って、馬主さんが「晩飯を食おう」と言えば行って、色々な話を聞かせてもらって、「ちょっと海外でも見てくれば?」と誘われれば一緒に連れて行ってもらったりしました。本当に、皆さんのお陰でここまでにしてもらいました。
-:それとともに貫禄もついてきていいのではないですか?
小:いやいや、それはないですよ(笑)。
小久保智調教師インタビュー後半は3/8(日)に公開!
南関東4場でも最小規模の浦和競馬からトップを穫るためのノウハウ、小久保流の馬選び、壮大なプランが明らかとなる、必見の内容となっております。ご期待ください!
プロフィール
【小久保 智】Satoshi Kokubo
家庭の助けになりたいとの一心から高校卒業と同時に働くことを決意。父親が元々、競馬好きだったこともあり、競馬の世界を志す。それまでは馬に触れたことすらなかったが、牧場で従事した後に厩務員へ。20歳の時に現在の浦和競馬へと移ってきた。調教師へと転向したのは2005年。開業当初は伸び悩む時期もあったが、2012年以降は安定して年間100勝超えを達成。3年連続で南関東リーディングを獲得し、押しも押されもせぬトップトレーナーへと上り詰めた。
2014年にはジャジャウマナラシが兵庫ジュニアGPを制し、ダートグレード競走初制覇。自身初の最優秀賞金収得調教師賞の受賞に加え、自身が待つ南関東年間最多勝利数を更新する132勝を挙げた。主な管理馬にはサトノタイガーやトーセンアレス、ジョーメテオなどがいる。馬房の回転率を上げる仕組みや厩務員に担当馬をつけないスタイルは厩舎独特のもので、“浦和から世界へ”を体現させるべく様々な試行錯誤を続ける実践派調教師。
1971年東京都出身。
2005年に調教師免許を取得。
2005年に厩舎開業。
初出走:
05年7月18日浦和9Rトーセンウェーブ
初勝利:
05年8月8日浦和1Rカヤドーヴェルト